株式会社和泉
ほんものの責任

和泉の「営業」を牽引するチカラ

太田基一

 

東京営業所 所長 46歳

大学卒業後、某メーカーの販社で数年働いた後、和泉に中途入社。家庭では、3人の子供を抱えるお父さん。

地域活動にも熱心で、子供が卒業した後も、頼りとされる存在である。

 

黒く日焼けした肌は、少年サッカーの審判活動によって培われたもの。

和泉においては、東日本の販売を担う東京営業所を取り仕切る顔である。

 

 

苦労と経験と、さまざまな想いによって積み上げられた太田は、今までも、そしてこれからも和泉の「営業」を牽引していく。

締め付けられるようノルマがあるわけではないが...

和泉って、ギューっと締め付けられるような、数字で追い込む、追い込まれる会社ではないです。基本、どこか緩いところがあるというか...

 

伊藤社長が我慢強い方なんで、キャラクターが社風に反映しているんだと思うんですよね。

 

でも、そうは言っても、僕は営業ですから。

苦しい時はもがかないといけないし、悪い時でも悪い時なりにやらなきゃならない。

営業なんで、数字が行かない時は、やっぱりきついですよね。

働くことの原点は、家庭。

もともと、僕はあるメーカーの販社にいました。大学を卒業してしばらく働いていました。

きつかったですね...

残業も多かったし、休みも取れない。とにかく忙しくて、上の人たちを見ると、家庭が崩壊しちゃっている人も多かった。遊びに行っても、子供がお父さんのことを尊敬していないのが分かるんですよ。お父さんが声をかけても、息子、娘が無視するんですね。

 

僕の父も、典型的な仕事人間でした。

忙しくて家でもあまり会えなくて。父が会社に行く時、「また来てね!」って、僕は父を送り出していたんだとか。僕自身は、覚えていないんですが。

でも、そんな父でも、例えば一緒に登山に行ってくれた思い出とか、遊んでくれた思い出は、僕にはとても大切な記憶として、今も残っています。

 

僕にとって、働くことの原点は、家庭です。

家庭がしっかりしていなかったら、働くことなんてできないです。だから、このまま当時の会社で働き続けちゃ駄目だと思った。

週休二日で、家庭を大事にできる会社で働きたい。

そこで、和泉に転職したわけです。

メーカーの強み=自分の腹の中でモノを作ることができること。

事務所にて。引っ越しから半年ほどの新オフィスは、採光がよく明るい。
事務所にて。引っ越しから半年ほどの新オフィスは、採光がよく明るい。

販社にいたのは数年ですが、それでも今の僕を形成している大切な経験を積ませてもらいました。お客様の立場になって、ものごとを考える、行動する、交渉するっていうのは、販社で学んだことです。

ただし、そういうことをしていると、やはりメーカーっていいなぁ、という思うことがあるわけで。メーカーの強みって、自分の腹の中でモノを作れることだと、思い至ったんですね。

だから、次に転職先はメーカーである和泉を選んびました。

もっとも、この業界の場合、それほどメーカーの立場って強くないので、苦労も多いですけど。

売ってくれてありがとう。買ってくれてありがとう。

入社したのは東京です。3年ほど東京で働いてから、4年間、名古屋本社で働き、また東京に戻ってきました。

僕が入社した頃は、転勤はあまりなかったんですけど、今は、特に営業の場合、転勤はありますね。ただし、最終的には採用地に戻る、っていうことが、和泉の転勤の大原則です。

 

本社で働いたことは、僕にとっても良い経験になりました。

例えば、当時の会長(故人)から、こんなことを聞かせてもらったことがありました。

 

「『売ってくれてありがとう。買ってくれてありがとう』、この精神を絶対に忘れるな」

この言葉は、今でも強く心に残っています。

 

和泉の販売力は、販売店の皆さまが支えてくださっています。販売店さまとの関係において、買ってやっているとか、売ってやっているというのは違うだろうと。わたくしどもはもちろん、そして販売店の皆さまも、お互いに感謝の気持ちを持つことができる関係を築きたい、という気持ちなんですね。

 

販売店の皆さまに対して、「買ってくれるお客さまを大事にしてくださいね!」って、僕は良く言うんですけど、それを分かってくださる販売店さまは、僕らのこと、つまり仕入れもとても大事にしてくださいます。

 

この関係は、和泉にとって、大事な財産です。

「笛...、吹いてくれると助かるんだけどなぁ!」

ブログ取材で街歩き中の一コマ。遠藤とともに歩く太田の胸には、少年サッカーチームの名前が入っている。
ブログ取材で街歩き中の一コマ。遠藤とともに歩く太田の胸には、少年サッカーチームの名前が入っている。

名古屋にいた時、当時幼稚園児だった息子がサッカーに興味を持ち始めたんです。

その後すぐ東京に転勤、戻ってきたんですが、せっかく興味を持ち始めたので、サッカーが続けられる幼稚園を探し、入園させました。

息子は小学校に上がってもサッカーを続けていて、小学生2年生、3年生位になった頃でしょうか、チームから「審判をやってくれる親御さんがいると助かるんだけど...」という話がありました。僕は、始めてしまうとのめり込むタイプなので、最初、断ろうと思っていたんですけど。

監督や仲間から、「笛...、吹いてくれると助かるんだけどなぁ!」って言われて。

 

それが少年サッカーの審判を始めたきっかけですね。

案の定、のめり込んでしまうわけですが...、例えば子どもたちが卒業した今でも、学校や地域との関係は続いていて、平山小学校の「生き抜く科」※ も、そんな関係から発展したものですね。

 

仕事絡みの人間関係って、やはり仕事をリタイヤした後は継続しにくいと思うんです。

でも、僕には、少年サッカーの審判を介して、仕事以外の人間関係があります。これは、とても幸せなことだと感謝しています。

※「生き抜く科」については、こちらのブログ記事をご参照ください。

仕事と家庭の両立。ありきたりかもしれないけど、大事にして欲しい。

若かりし頃、販社における営業としてのサラリーマン生活は、本当にきつかった。

確かに勉強になったし、あの辛い経験があったからこそ、今の僕がいるのも事実だけど、あんな経験は、部下にも、僕の子どもたちにも、絶対にして欲しくない。心底、そう思っています。

 

「どうやったら生活が楽しくなるんだろう?」

考えて欲しいです。

僕は、東京営業所を預かる身として、家庭やプライベートも大事にできる職場環境を整えて行きたいと考えています。ただし、僕ができるのは仕事の場の充実だけ。家庭やプライベートを充足させることは、皆が自分自身で考えなくちゃいけないことは、当然のことです。

 

仕事と家庭の両立。

ありきたりだけど、その価値を大事にできる職場にしたいし、またその大切さを尊重できる人と一緒に働きたいですね。

※本記事の内容は、すべて取材時のものであり、現在とは異なる場合があります。